2009年06月14日

椿油(つばきあぶら、英語 camellia oil、tea oil)は

椿油(つばきあぶら、英語 camellia oil、tea oil)は、ツバキ科ツバキ属のヤブツバキの種子から採取される植物性油脂。ユチャなど、ツバキ属の種子から取ったものの総称はカメリア油(カメリアゆ)と呼ばれる。利用の歴史は古く、続日本紀には、777年、渤海国使が帰るときに海石榴(つばき)油を所望したので贈った、との記述がある(椿という字は本来はセンダン科のチャンチンを指す字であり、後にツバキに当てられた。かつては海石榴と書いていたようである。)。

なお、アロマテラピーなどに用いられるティーツリーオイル(teatree oil)は、英語の名称が似ているが、フトモモ科の植物から作られる精油で、全くの別物である。

ヤブツバキ(薮椿)
日本における代表的原料植物であり、東京都の伊豆大島、利島や長崎県五島列島福江島のものが有名。
サザンカ(山茶花)
長崎県諫早地方ではヤブツバキよりサザンカの種子から採油するのが一般的である。この地方ではツバキ類の種実のことをカタシの実、サザンカのことをヒメカタシと呼ぶので、椿油をカタシ油と呼ぶ。
ユチャ(油茶)
中国における代表的原料植物。安徽省、湖南省、浙江省などで生産されている。
チャノキ(茶之木)
飲用にする茶の木であるが、中国においては、搾油にも使用されている。

製法 [編集]
種から油分を取り出す方法として次の2種が用いられている。
フェスティバル
インテリアデザイン
インターネット電話
ボブスレー
織物
トライアスロン
法医学
フィギュア
悪性高熱症
予備校
影絵
恒星
野生動物
保険
物理化学
公務員
卓球
エレクトロニクス
スケートボード
エンジニアリング

圧搾
加圧によって種子から液状の油分を分離するもの。コールドプレスともいう。本来の味や成分が、より保持される製法。
溶剤抽出
粉砕した種子と有機溶剤をまぜて、油分を溶剤に溶かし込んだ後、蒸留して溶剤を再分離するもの。圧搾よりも効率よく取ることができる。
いずれも、粗油を得た後、濾過と脱色を行って、精製品が得られる。

用途 [編集]
食用油
天婦羅油、炒め物、サラダ用などに使用。長崎県の五島うどんは、引き延ばす際に地元の椿油を生地の表面に塗る伝統がある。
化粧品
髪油(鬢付け油)、スキンオイルなど
薬用
日本薬局方に収載されており、他の薬効成分と配合して用いられる。
工業用
塗料などの樹脂原料
その他
日本刀、模擬刀、木刀、棒、杖、棋具の手入れのため塗布して使用する。

2009年05月29日

清洲同盟から三河国・遠江国平定

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で、前線の尾張国・大高城を攻略中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・松平清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。

翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた[6]。

西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも苦心の末にこれを鎮圧した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏系統の清和源氏であることも公認させた。
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永禄11年(1568年)には氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。遠江国で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下においた。

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長との間に対立を深め、信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移るとここを浜松と改名し、浜松城を築きこれを本城とした。

2009年04月25日

ハルツ山地

ハルツ山地(ハルツさんち、Harz)とはドイツ中央部、北ドイツ低地と南側の山地地域との境界に位置する山地。エルベ川とヴェーザー川の中間に位置する。北側を南東―北西方向の断層で切られた長さ90km、幅30kmの地塁山地で、北西部は高ハルツ(平均標高640m)、南東部は低ハルツ(平均標高305m)とよばれる。最高峰は高ハルツにあるブロッケン山(1,142m)で、豊かな森林と牧草が両ハルツの斜面をおおっている。低ハルツには肥沃な高原がある。

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古生代のグレーワッケ(硬砂岩)、結晶片岩、珪岩、花崗岩などからなるが、山地の形成は新生代第三紀の地殻運動によるもので、ところどころに火山岩類の貫入がみられる。山地は鉱産物に富み、岩塩、鉄鉱石、銅、鉛、銀、カリ塩など多種の鉱石が採掘され、10世紀以来鉱業が盛んに行われてきたが、現在は大きく後退してしまった。北麓のゴスラーは中世より鉱山都市として栄えた(ランメルスベルク鉱山およびゴスラーの歴史都市は世界遺産となっている)。

以前から高原保養地の機能を持っており、ウィンタースポーツも盛んで現在は観光業が重要である。

この地域ではキリスト教以前の伝統や伝承がドイツのほかの地方よりも長く生きつづけた。こうした伝統は多くの伝説のもとになり、ドイツ文学に題材を提供した。ブロッケン山を舞台とする「ワルプルギスの夜」の伝説は、ゲーテの「ファウスト」にもとりいれられている。

2009年04月08日

日本のメタルシーンに大きな影響

1980年代初期に日本のメタルシーンに大きな影響を与えたアーティストはマイケル・シェンカー・グループ、ゲイリー・ムーア、レインボー、ヴァン・ヘイレンなどである。現在のJ-POPにおいてもマイケル・シェンカーやゲイリー・ムーアに影響されたアーティストは多く、1990年代初期のビーイング系音楽にはそれらしい泣きのフレーズや叙情的なメロディがふんだんに盛り込まれていた。

日本のバンドでは1981年に衝撃的なデビューを遂げたラウドネスが1983年からアメリカツアーを行ったり、1976年デビューのBOW WOWが1982年にレディング・フェスティバルに出演したり、日本でも若いヘヴィメタルバンドを盛り上げるために音楽雑誌のYOUNG GUITARやロッキンfが積極的にメタルフェスを開いていたりと日本でもヘヴィメタルは盛り上がりを見せた。

1980年代中期(速弾きブーム) [編集]
アメリカでのLAメタルブームは日本のバンドにも影響を与え、日本のバンドの殆どがLAメタル系のような派手なルックスになった。その中でも特に派手だった44マグナムの人気は高く、中でも美形ギタリストの広瀬“JIMMY”さとしの女性人気は尋常ではなかった。

また、高崎晃、ジェイク・E・リー、ウォーレン・デ・マルティーニ、ジョージ・リンチ、山本恭司らはギターヒーローとしてギター少年の憧れの的となる。その後登場した当時スティーラーだったイングヴェイ・マルムスティーンの出現は、速弾き戦国時代突入の幕開けとなった。

1980年代中期と言えば1984年10月にシンコー・ミュージック・エンタテイメントから創刊された日本初のヘヴィメタル雑誌「BURRN!」の誕生は当時のヘヴィメタルファンには「待ってました!」と言わんばかりの登場であった。当時はインターネットもないためヘヴィメタルの情報が中々入ってこない時代でもあり、日本初のメタル雑誌の登場は更にメタルシーンを盛り上げる結果となった。

1984年には日本初の巨大ヘヴィメタル・フェスティバル「スーパー・ロック '84 イン・ジャパン」が西武球場等の各球場で行われ、ホワイトスネイク、マイケル・シェンカー・グループ、スコーピオンズ、ボン・ジョヴィ、アンヴィルらが出演。マイケル・シェンカー・グループ出演時におけるレイ・ケネディ(Vo)の、臨時参戦とは言えカンニング・ペーパーを見ながらの中腰で歌う年寄りのようなステージパフォーマンスには批判が集中した。尚、この時のイベントを収めたビデオは後に商品化されたが現在は廃盤であり、DVD化を待ち望んでいる声もある。

1980年代中期(ポップメタルへの反逆) [編集]
メタリカなどのスラッシュメタルバンドがアメリカのアンダーグラウンドシーンで人気を獲得する中、日本でもポップメタルに反逆する第二世代と呼ばれるバンドが次々と登場し、その中でもFLATBACKERやANTHEMは音楽雑誌で第一世代のバンドに毒を吐き、過激な演奏でコアなファンを獲得した。同時期にデビューした聖飢魔IIはBURRN!誌では0点という記録に残る評価を受けたが、ヘヴィメタルファン以外にも支持されていったバンドである。

1985年にはLOUDNESSが世界デビューを飾り、1987年にはVOW WOWがイギリスを中心に活動を開始した。また、1980年代の日本のメタルシーンはインディーズを中心に盛り上がりを見せ、その中には後にモンスターバンドと化すXの姿もあった。特にXは44マグナム以上に派手なルックスかつ凶暴なパフォーマンスで少しずつ人気を得ていた。また、当時のXは日本のヘヴィメタルシーンをあざ笑うかのようにテレビ番組の出演を繰り返していた。(詳しくはXの項目参照)

1980年代後半(バンドブーム) [編集]
1987年のGuns N' Rosesの登場により、日本のメタルシーンにおいてもGuns N' Rosesのフォロワーが登場した。1989年にデビューしたXについては、音楽面の将来性で多くが期待を持ったものの、TV等のメディア登場初期に見せたやりたい放題のパフォーマンスに反発、幻滅していった者も少なくない。

また、Xの成功と影響を受けてその後次々とデビューしたバンドには、楽曲や演奏技術は二の次でヴィジュアルとパフォーマンスばかりを過度に重視する、すなわち本来のバンドとしてのスタンスからさえ大きく逸脱した方向性を見せたものさえ出てくる始末であった。これらは若年女性層からの熱狂的な支持こそ受けていたが、ヘヴィメタルのプレイヤーやファンの間には、ヘヴィメタルのイメージに対して大きな誤解を与えるイロモノ( =「本来のその中心から外れているもの」の意) として強い不安感と嫌悪感を生む事になった。

事実、Xの活躍はめざましく、テレビや新聞、女性誌といった一般マスコミにも取り上げられて知名度を大きく上げる事となったが、これは同時にXのスタイルがヘヴィメタルのパブリック・イメージとして急激に浸透してしまうという事態を引き起こすことに繋がった。21世紀に入って現在ですら20代後半~40代前半の人たちからはこの当時のXのイメージに基づいた、ヘヴィメタルに対する偏ったイメージに根ざした発言が少なからず聞かれるところである。

しかし、それまでの日本のヘヴィメタルでは、歌謡曲と同様に一般マスコミから取り扱われる程の大ヒットを記録した曲は無く、従ってヘヴィメタル自体が日本の音楽史にあってはメインの売れ線からは一貫して外れた位置に置かれていた。その為ジャンル全体の情報量が不足している中、ヘヴィメタル分野で事実上初めて一般テレビマスコミにまで注目され話題性を提供できたのが、正統派ヘヴィメタルを好むプレイヤーやファンがイロモノ路線として嫌っていた、聖飢魔IIやXなどの見た目のインパクトも重要視し、音楽よりも視覚的なパフォーマンスでマスコミから扱われていたバンドであった。実際Xなどはメジャーレーベルで発売したCDで数字を叩き出すまでは『ちょっと過激な音楽もできるバラエティタレント』並の扱いしかされていなかった。かくて彼等がヘヴィメタルの見た目の象徴として扱われた為、これらの偏ったイメージが一般に定着してしまったという点は否めない。

また、視聴率至上主義のテレビマスコミにとっては、それまで巨大ヒットを生み出さなかったヘヴィメタルに対して、そもそも「ロック音楽のイロモノ」程度の認識しか無かったという点も大きい。他にも当時の「BURRN!」などの編集スタイルなどの影響もあり、当時のヘヴィメタルのミュージシャンの多くには音楽一筋というイメージを最重視し、テレビなどでタレント的な活動もするヘヴィメタルやロックのミュージシャンを蔑視する風潮があったと言われており、一般マスコミの持つ大衆への影響力への軽視が招いたツケであるという指摘もある。

いずれにせよ、この1989年に始まったバンドブームにより、派手な見た目やパフォーマンスを重視し演奏を軽んじたバンドが非常に増えた。それらのバンドの多くがXと同系統のファッションという事から「ヘビメタ」と見なされた事により、普通に音楽性を重視して活動していたメタルバンドはその煽りをくらい軽視されるという結果になっていった。こうした経緯から、1990年代には日本のヘヴィメタルは少しずつ、しかし、確実に衰退していくこととなる。

挙げ句には「BURRN!」でさえ人気投票のBORE部門には「ヘビメタの流行とイカ天ブーム」がある程、当時のヘヴィメタルファンにはヘビメタは差別用語とみなされてしまっている。その後、インディーズでヘヴィメタルバンドとして活動していたバンドのほとんどがヴィジュアル系へと移行した。またメジャーデビューに際しての所属事務所やレコード会社の販売戦略面からの要求で、音楽性も含めて移行をせざるを得ない状況に追い込まれていったものも多い

1990年代 [編集]
世界的にヘヴィメタルシーンが力を失ってゆく中、日本国内ではドイツや北欧出身のメタルバンドを中心に依然として人気は根強く、ハロウィンなどのバンドは安定した人気を持っていた。1989年にデビューしたMr.Bigや1993年デビューのアングラは日本で高い評価を受け、特にMr.Bigは女子高生の支持を得るなど好評を博し、ポール・ギルバートはギターキッズの注目の的であった。1988年以降、1992年、1994年、1995年にはイングヴェイ・マルムスティーンが日本武道館でのライブを成功させるなど、1990年代以降日本で好調な人気を得て、それ以降も日本を重要なマーケットとして位置づけて、活動している者も少なくない。

しかしこれは海外のバンドに限った事であり、日本のバンドはXの影響を受け、雨後の筍の如く出現してくるヴィジュアル系バンドの全盛の影に完全に隠れてしまい、冬の時代どころか氷河期に陥っていた。それまでの有力バンドは1989年に44マグナムが解散したのを筆頭に、1990年にVOW WOWとEZOとDEAD END、1992年にANTHEM、1994年にアースシェイカーと次々と解散してゆく。わずかにOutrageとUnitedが日本のメタルファンからも根強い人気を誇ったが、メジャーな成功を収めたとは言い難かった。

また、このHM/HR系の斜陽化とバブル景気後の業態再編や利益性を重視する企業体質への変化の過程の中で、メジャーレーベルではこの時期にバンド整理を実行したものもあり、契約解除の理由はセールス不振やバンドメンバーのスキャンダルなど色々ではあってもメジャー契約を打ち切られ、新たなる契約先を求めて数多くのバンドが音楽業界をさまようことになった。また、この時期に解散に追い込まれたものも少なくない。唯一アメリカで安定した活動を続けるLOUDNESSにも全盛期の力は既に無く、メンバーチェンジを繰り返しながら2000年のオリジナルメンバー再集結までは細々とした活動が続く事となる。そして、本来ならばこれらの後続となるべき新進のメタルバンドについても、『ヘビメタはダサい』『時代後れ』などの理由をつけられて、メジャーデビューどころか、もはやそれ以前の段階の演奏の場の確保さえまともにできない者すら出るという有様で、演奏の場の確保を目的にビジュアル系やそれに近いスタイルへの転換を余儀なくされたケースもあった。

一方、ヴィジュアル系バンドの開拓者として別格の存在になったXについても、セールス面でこそ好調であったがその活動は順風満帆とまでは言えなかった。1992年にベースのTAIJIを解雇すると同時に名前もアメリカの同名のバンドとの混乱を避ける事を目的にX-JAPANと改めた。改名後はYOSHIKIの体調面の問題(頚椎椎間板ヘルニアや神経性無気力症候群など)もあってか初期の様な激しい曲は少なめになり、バラード主体となった。そして1997年にヴォーカルのTOSHIの音楽性の方向の違いによる脱退を機に2000年まで一時解散のはずだったが、ソロとして好調に活動していたhideが翌年急死してしまったため、全盛期のメンバーによる再結成は不可能となってしまったが、2007年にはYOSHIKIの口から「2007年には復活する」との宣言がなされ、2008年3月には東京ドーム公演を行っている。また、TAIJIこと沢田泰司もXを解雇された直後こそLOUDNESSなどに参加するものの、後に著しい低迷に陥り、一時はホームレス同然にまで転落していったのはよく知られるところである。

他方、企画色の強いモノではあったが、1996年にはヘヴィメタルとアニメソングを軽いノリで融合させたアニメタルがデビューし、マスコミが注目した他、カラオケ需要なども発生したことからヘヴィメタルとしては記録的なヒットとなった。これが数年間注目されなかった日本のメタルシーンに再び脚光を与えるきっかけとなる。その後1998年にSEX MACHINEGUNSやConcerto Moonがデビュー。特にSEX MACHINEGUNSに関しては、かつてのXのように「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」、「堂本兄弟」、「パパパパパフィー」などのバラエティ番組にも数多く出演し、ヘヴィメタルをよく知らない世代の人々にもその名を轟かせた。これにより全盛期ほどではないが、多少の活気を取り戻したといえる。

2000年代 [編集]
2000年代に入り、一時衰退していたヘヴィメタルが様々な形で再びロックの本流としての地位を確立してきた。最もヘヴィメタルだけではなく、ヘヴィメタルを中心にアレンジしたニュー・メタルのジャンルも盛り上がりを見せ、1980年代ブームをも取り入れたものが出てきている。しかし、アメリカン・ミュージック・アワードでヘヴィメタル部門が廃部されるなど、現在はまだ1980年代ほどの盛り上がりにまでは達していない。これには、ヘヴィメタル以外のジャンルのロック(ガレージ・ロックなど)が盛り上がりを見せている事も絡んでいる。

また、ドイツや北欧を中心とするヨーロッパ地域においては、1980年代ブームとほとんど代わりようが無いようなヘヴィメタルが、現在もロックの本流として地位を確立している。

サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

2009年03月25日

蔵野鉄道は西武鉄道(旧)と食糧増産

1945年(昭和20年)9月22日 - 武蔵野鉄道は西武鉄道(旧)と食糧増産を吸収合併して西武農業鉄道に改称。これは陸上交通事業調整法に基づくものであったが、実際の合併は食糧増産に対する運輸通信省の査定に時間が掛かり、終戦後となった。
1946年(昭和21年) 11月15日 - 西武農業鉄道は現在の西武鉄道に改称。バス事業を武蔵野自動車(現:西武バス)に譲渡、分社化。
1950年(昭和25年)
5月4日 - 旧日立航空機専用線を譲り受け、上水線として小川 - 玉川上水間が開業。
5月27日 - 野口信号所 - 西武園間が開業。
8月1日 - おとぎ線多摩湖ホテル前 - 上堰堤間が開通。
1951年(昭和26年)4月5日 - 元西武軌道の路線で東京乗合自動車時代の1935年から業務を委託していた新宿軌道線を正式に東京都交通局に譲渡。
9月16日 - おとぎ線上堰 - ユネスコ村間開業。
1952年(昭和27年)
3月25日 - 高田馬場 - 西武新宿間が開業。
7月15日 - おとぎ線多摩湖ホテル前 - ユネスコ村間を地方鉄道に転換し山口線に改称(おとぎ線・おとぎ列車は愛称として残る)。
1954年(昭和29年) - 戦後初の新造車501系(初代、のちの351系)登場。
1957年(昭和32年) - 本線での蒸気機関車運用廃止。
1959年(昭和34年) - 451系登場。
1960年(昭和35年)11月 - 新宿線西武新宿 - 上石神井間で6両運転開始。
1961年(昭和36年)
551系登場
12月、池袋 - 所沢間で急行8両運転開始。新宿線西武新宿 - 田無間で6両運転開始。
1962年(昭和37年)
9月1日 - 小川 - 萩山間開業。上水線から新宿線へ直通運転開始。
12月28日 - 西武鉄道初のカルダン駆動車601系登場。
1963年(昭和38年)
池袋 - 所沢間で私鉄初の10両運転開始
701系登場。
1964年(昭和39年)
4月26日 - 西武グループ創業者、堤康次郎死去。
1965年(昭和40年)2月18日 - 保有車両数400両突破。
1967年(昭和42年)
1月13日 - 西武新宿 - 田無間で急行8両運転開始。
11月11日 - 801系登場。
1968年(昭和43年) - 拝島線の玉川上水 - 拝島間開業。
1969年(昭和44年)
西武初の黄色い電車である101系が登場した(当時は黄色とベージュのツートン、冷房なし)。
10月14日、西武秩父線開業とともに「レッドアロー」こと5000系特急車登場。ATS使用開始(多摩川線、安比奈線、山口線を除く)仏子-西武秩父間でCTC使用開始。
1972年(昭和47年)7月1日 - 通勤型初の冷房車101系試作冷房車登場。
1973年(昭和48年)11月29日 - 最高速度100km/h運転開始。
1974年(昭和49年)9月6日 - 多摩川線でATS使用開始。
1975年(昭和50年)
6月2日 - 西武新宿 - 本川越間で急行10両運転開始。
12月8日、西武新宿 - 拝島・多摩湖間急行の10両運転開始。
1977年(昭和52年) - 新宿線に西武初の界磁チョッパ制御車、4扉の2000系が登場する。2000系登場に従い、1980年頃に501系(2代目)とほぼ同時期に351系が本線系(新宿線系統・池袋線系統)からは運用終了。当時、3編成9両のみ多摩湖線のみ残る。

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2009年03月09日

ライト自邸と事務所

ライト自邸と事務所 (アメリカ合衆国イリノイ州オークパーク、1889)
ウィンズロー邸(1894)
ラーキン・ビル(1903)
ユニティ教会(1904)
ロビー邸(1906)
ミッドウェー・ガーデン(1913)
タリアセン?(1914)
バーンズドール邸(1917年)
タリアセン?(1925)
カウフマン邸/落水荘(1935-39)
ジョンソンワックス社(1936-39)
ジョンソン邸(1937)
タリアセン・ウエスト(1937)
ジョンソンワックス研究棟(1944)
グッゲンハイム美術館(1943-59)
ベス・ショーロム・シナゴーグ(ペンシルベニア州エルキンズ・パーク、1954)
マリン郡役所(1957-66)
リトル・ハウスの居間がメトロポリタン美術館に再現。また帝国ホテル玄関のオブジェの一つも展示。
日本国内に現存する作品 [1]
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

帝国ホテル  (1967年取り壊し、正面玄関部分のみが博物館明治村に移築、1923年)
山邑邸 (現 ヨドコウ迎賓館、兵庫県芦屋市、国の重要文化財、1924年)
自由学園明日館 (共同設計:遠藤新、東京都豊島区、国の重要文化財、1926年)
旧林愛作邸 (現 電通八星苑、東京都世田谷区、非公開、1917年)

日本語文献 [編集]
フランク・ロイド・ライト 『建築について』 谷川正己ほか訳  鹿島出版会 (SD選書上下)、1980年  
フランク・ロイド・ライト 『ライトの住宅 自然・人間・建築』 遠藤楽訳 彰国社、1975年
フランク・ロイド・ライト 『ライトの遺言』谷川正己、睦子共訳 彰国社、1966年 新版1978年
フランク・ロイド・ライト 『ライトの都市論』谷川正己、睦子共訳  彰国社、1978年
フランク・ロイド・ライト 『ライトの建築論』エドガー・カウフマン編 谷川正己・睦子訳、彰国社、1979年  
フランク・ロイド・ライト 『ライト自伝 ある芸術家の形成』 樋口清訳、中央公論美術出版、1988年
フランク・ロイド・ライト 『ライト自伝 ある芸術の展開』 樋口清訳、中央公論美術出版、2000年
フランク・ロイド・ライト『弟子達への手紙』 『建築家への手紙』内井昭蔵ほか訳 丸善、1987年
天野太郎・樋口清・生田勉『フランク・ロイド・ライト』彰国社 1954
天野太郎・浦辺鎮太郎・二川幸夫『フランク・ロイド・ライト1』美術出版社現代建築家シリーズ 1967
谷川正己 『フランク・ロイド・ライト』 鹿島出版会 (SD選書) 、1967年
谷川正己 『ライトと日本』 鹿島出版会 (SD選書) 、1977年
谷川正己 『タリアセンへの道』 鹿島出版会(SD選書) 、1978年
谷川正己 『フランク・ロイド・ライトとはだれか』 王国社、2001年
谷川正己 『フランク・ロイド・ライトの日本』 光文社新書、2004年
エドガー・ターフェル 『知られざるフランク・ロイド・ライト』 谷川正己、谷川睦子共訳 鹿島出版会、1992年
ターフェル 『フランク・ロイド・ライト 天才建築家の人と作品』 谷川睦子訳 、現代建築集成別巻3・啓学出版、1985年
ブルース・ブルックス・ファイファ 『巨匠フランク・ロイド・ライト』 デヴィッド・ラーキン編、鹿島出版会、1999年
ケヴィン・ニュート 『フランク・ロイド・ライトと日本文化』 大木順子訳、鹿島出版会、1997年
William Allin Storrer 『フランク・ロイド・ライト全作品』 岸田省吾監訳、丸善、2000年
ケネス・フランプトン 『テクトニック・カルチャー』 松畑強+山本想太郎訳、TOTO出版、2000年
Charles E./Berdeana.Aguar『フランク・ロイド・ライトのランドスケープデザイン』丸善、2004年
三沢浩『フランク・ロイド・ライト入門 その空間づくり四十八手』 王国社 、2008年
三沢浩『フランク・ロイド・ライトのモダニズム』 彰国社、2001年
岡野真『フランク・ロイド・ライトの建築遺産』 丸善、2005年
エイダ・ルイーズ・ハクスタブル 『未完の建築家フランク・ロイド・ライト』 三輪直美訳 TOTO出版、2007年
マーゴ・スタイプ 『フランク・ロイド・ライト・ポートフォリオ 素顔の肖像、作品の真実』隈研吾監修 酒井泰介訳 講談社トレジャーズ 2007年
Arlene Sanderson 水上優訳 『フランク・ロイド・ライト/建築ガイドブック』 丸善 2008年

2009年02月21日

プラズマ

プラズマ (plasma) は、正の電荷をもつ粒子(イオン)と負の電荷をもつ電子が電離状態で同程度分布し、全体としてほぼ電気的中性を保つ粒子集団のこと。1928年にアーヴィング・ラングミュアによって命名された。固体、液体、気体に続く、物質の第4形態といわれている。 プラズマは気体、液体と同じく、流体の部類に属するが、プラズマを形成する個々の粒子(電子・イオン)は電荷を帯びている。電磁場が存在する場合はクーロン力、ローレンツ力がはたらき、気体や液体には見られない独特の性質(電磁流体力学的性質)を示す。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

また、医学分野では血漿 (Blood plasma) のことを、生物学では原形質 (protoplasm) をプラズマと呼んでいる。

200万年前、人類の祖先であるヒト属(原人)、ホモ・ハビリスにより火(後述、プラズマの一種)が使われ始める。
1835年、ファラデーによって初めて実験室で安定的なプラズマ状態が生成された。
2005年、ITERの建設がフランスに決まった。
人間の歴史はプラズマとともに始まり、プラズマ技術の発達とともに大きく変動しているといえる。物質の第4形態ともいわれる。

身近なプラズマ
一般に気体中で放電することによって生成される。身近なプラズマの例としては、点灯している蛍光灯の内部も水銀ガスがプラズマになったものである。このことはグロー放電を起こしてそれからクルックス管である蛍光灯内のアルゴンやキセノン等に経路状に電流が流れ発光する事と同じである。なお、このグロー放電は放電プラズマの一種である。また、我々の生活に必要不可欠な火(燃焼炎)もプラズマの一種である。他に強力な磁界をもつ高圧鉄塔の電線の周りには同心円上にプラズマが発生する。また、地下水脈で水が勢いよく岩盤にぶつかることでその空洞内に発生すると言われている。

電離層、オーロラ、太陽・恒星の内部、太陽風、星間物質などもその例。

プラズマの種類と産業への応用
プラズマには高温プラズマ(プラズマを構成する粒子すべての温度が高い状態、熱プラズマ)と、低温プラズマ(電子温度のみが高い)があり、金属の内部や蛍光灯の内部は低温プラズマと見なされる。高温な熱プラズマは1 - 数万ケルビンにもなり、地球上のあらゆる物質を溶かしてしまうため、高融点の材料の開発が求められている。なお、種々のプラズマにより、核融合、プラズマディスプレイ、溶接、プラズマロケット、材料生成等その応用分野は広い。

半導体内での電子と正孔や、金属内の電子の振る舞いがプラズマと酷似しているため、固体プラズマと呼ばれる。

プラズマの語源
英語のplasmaは母体,基盤,そして鋳型 (mold) といった意味のギリシア語をもとにしている。放電現象が放電管の中で隅々まで広がる様子を見てラングミュアが命名したといわれている。元のギリシア語は宗教用語としても使われ、神に創造されたものといった意味で使われていたことから、神秘的なもの、霊的なものとも結び付けられ、エクトプラズム (ect plasm) といった用語もある。

オカルトとの関連性
オカルトへの解釈として高温プラズマが目撃されると火の玉と見られることや、プラズマから発せられる高磁場の脳波への影響により幻覚症状を引き起こす可能性があることから、UFOや霊、ミステリーサークルなど、あらゆる超常現象の原因であるとする説が、早稲田大学の大槻義彦教授をはじめとする著名人により唱えられている。

関連項目
サイクロトロン運動
磁場中ではプラズマを構成している荷電粒子がローレンツ力を受け、回転運動を行う。この運動をサイクロトロン運動と呼ぶ。
デバイ遮蔽
通常空間中に電荷がある場合は、クーロンの法則に従い電場ができる。ところが、プラズマ中ではこの電荷の周りに逆符号の電荷を持つ荷電粒子がクーロン力を受けて集合するため、実効的に電場が遮蔽される。これをデバイ遮蔽という。
ドリフト
プラズマを構成している個々の荷電粒子は磁場中でサイクロトロン運動を行う。その回転中心が磁場や電場の分布によって移動することがある。巨視的にはプラズマが移動していることになる。この事象をドリフトと呼ぶ。
ピンチ効果
柱状になったプラズマの軸方向に大電流を流すと、作り出された磁場と電流自身の相互作用ローレンツ力により、プラズマが急速に締め付けられて、中心部に細い紐状になって集中する現象。これによってプラズマは容器壁から離れてプラズマの閉じ込めが可能になり、同時にジュール熱の発生と圧縮による高温を生じる。核融合の初期段階の研究にとって重要。
プラズマ波動
プラズマ中は、電磁波、音波、静電波など様々な波が伝搬する事が可能である。これらの波の物理的性質はプラズマ中のマックスウェル方程式、流体方程式等によって記述される。プラズマ中の電磁波の伝搬速度(位相速度)は真空中の光速度(約3× 108m/s)とは大きく異なる場合もある。

2009年02月04日

村上氏(むらかみし)

村上氏(むらかみし)とは
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

信濃村上氏(清和源氏頼清流)
清和源氏(河内源氏)頼清を祖とする信濃の国人領主。鎌倉時代から同国村上郷を領し、その後埴科郡を拠点とする北信の有力国人領主として、建武2年(1335年)の中先代の乱では「信濃惣大将」として鎮圧に当たった。その後足利将軍家から信濃守護家として遇された小笠原氏や北信濃の名族(同じ河内源氏の頼季流)井上一族、東信濃の名族滋野一族(海野氏など)と抗争を繰り返す。海野氏を滅ぼした後は武田氏の侵攻に晒され、天文22年(1553年)村上義清・国清親子は越後の上杉謙信を頼り、信濃村上氏は終焉を迎える。このとき村上氏族のうち一部は、下総や上野等の周辺の国々に飛散したといわれる。
信濃村上氏(清和源氏満快流)
源満仲の五弟満快を祖とする一族。平安時代後期に信濃守として下向した源為公(満快の曾孫)の子である源為邦(村上源判官代)に始まる。平安時代末期には奥州征伐の功によって信濃夏目郷の地頭職を与えられた国忠の後裔が夏目氏を称し、戦国時代には夏目吉信などを輩出した。
伊予村上氏(村上水軍)
瀬戸内海の豪族で、水軍を率いた。能島・来島・因島の三つの家の総称で「三島村上氏」とも呼ばれる。上記の信濃村上氏の庶流とされ、保元の乱や平治の乱で活躍した村上為国の弟定国を祖とする。 村上天皇の皇子具平親王の子季房が源姓を与えられ、その七代の子孫雅家が北畠に住んだ事から北畠氏を名乗り その子孫の師清の子らが伊予村上水軍の祖となる

伯耆村上氏
伯耆国汗入郡を本拠とする国人。室町時代には南条氏、小鴨氏などと並ぶ有力国人であったが、永正年間からの尼子氏侵攻によって伯耆から離れ、大内、但馬山名氏を経て最終的に毛利氏へ仕えた。永禄年間には伯耆へ帰国したものと思われる。

村上氏の後裔となる氏族
屋代氏、平地氏、滝沢氏、東条氏、室賀氏、雨宮氏、清野氏、安川氏、上条氏、下条氏 、飯田氏、島本氏、福沢氏、出浦氏、小野澤氏、力石氏、山田氏、平屋氏、今里氏 、二柳氏、小野氏、岡田氏、古池氏、三川氏、牧島氏、吉田氏、安藤氏、上野氏、西川氏、林氏、栗田氏、千田氏、山浦氏、吾妻氏

濃村上氏(しなのむらかみし)とは、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。

村上氏の初代から為国までは諸説あり、はっきりとは確定していない。

最初に村上姓を称したのは、「尊卑分脈」では源頼信の孫にあたる源仲宗とされる。しかし、その父・源頼清とする説(信濃村上氏の菩提寺である村上山満泉寺に伝わる系図)や仲宗の子顕清や盛清とする説がある。村上を名乗ったことが確実なのは、盛清と顕清の子宗清・為国からである。

この時期の系譜

源頼信-源頼清-源仲宗-源顕清または源盛清
仲宗の後は、嫡男唯清が下記の呪詛事件で廃嫡となり、唯清の養子として盛清が継いだとする説と、次子顕清が継いだとする説がある。

信濃との関係
藤原宗忠の「中右記」によると、仲宗は息子達と共に白河上皇に使えていたが、寛治8年(1094年)8月17日、嫡男唯清が上皇を呪詛したとして伊豆大島に配流となり、その父や弟にも処分が下った。

父の仲宗 周防国に配流
弟の顕清 越前国に配流
弟の仲清 阿波国に配流
弟の盛清 信濃国に配流
このとき盛清の配流先が更級郡村上郷だったとされており、顕清にも後に村上郷に住したとする説がある。

村上姓の由来
村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。盛清や顕清から村上姓となったとする説の根拠であり、その父仲宗からの姓だとしても、上皇への呪詛が発覚する前に仲宗は信濃に所領を有しており、それが村上郷だったのではないかとされる。これは、越後に配流された顕清が後に村上郷に移ったとする説(子が村上姓となっている)があるように、仲宗の一族にとって村上郷が縁のある場所だったのではと考えられるからである。

源頼清からとする説では、村上天皇の第四皇子為平親王が村上姓を賜り、その子源憲定(村上憲定)の娘婿に源頼清がなったことが由来とされる。ただし、この説は十分な確証を得られていない。

平安時代

保元・平治の乱
越前に配流になっていた顕清の次男村上為国(「尊卑分脈」では「村上判官代」)とその子信国と基国が、保元元年(1156年)の保元の乱で崇徳上皇に味方し参加。敗戦し囚われたのち、兄弟の生母(為国の妻)が、後白河天皇の側近藤原通憲の娘であることを理由に赦免された(一説に基国は後白河天皇方で、父の助命を求めたともいう)。平治の乱では藤原通憲(信西)方につき勝利する。

なお、為国は叔父の村上盛清の養子となっているが、顕清の後を継いだ兄の宗清も「村上蔵人」を称している(「尊卑分脈」)ことから、養子以前(父の顕清や祖父の仲宗の代)から村上姓になっていたと考えられる。

この時期の系譜

仲宗-顕清-為国
仲宗-盛清=為国-信国

治承・寿永の乱
その後の為国親子は、信濃国の木曽地方で挙兵した源義仲軍に参加し、義仲とともに寿永2年(1183年)7月28日に上洛。しかし、義仲と後白河法皇が対立すると後白河法皇方に味方し、多田行綱の指揮下で水島の戦いから帰京した義仲軍と11月19日に法住寺殿の合戦で戦うが敗戦。基国が戦死し信濃へ帰国。源頼朝が後白河法皇の院宣に従い、源義仲討伐の軍を起こすとそれに参加。その後の平家追討にも参加し、一ノ谷の戦いで記録に残る。

鎌倉時代

鎌倉時代の村上氏の立場
同じ河内源氏出自で平家追討に功績があったものの、源頼義・源義家父子の系統ではないため守護などへの登用はなく、一御家人という地位に甘んじることになった。まして、鎌倉幕府の実権が北条氏の手に移ると、北条氏と結縁のない村上氏は鎌倉幕府の中枢からは忘れられていった。

その間、村上氏は下記のように家督を相続していった。

村上為国-信国-安信-信村-胤信-信泰

鎌倉幕府倒幕と村上氏
鎌倉時代末期の村上氏の当主村上信泰は、幕府内では忘れ去られた存在であったとされる。歴代の村上氏は鎌倉幕府に対して恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に対して不満を募らせていたと思われる。信泰の子村上義光が大番役として京にあったとき、倒幕を考えていた後醍醐天皇の皇子護良親王が接近し、村上氏に対し倒幕を示唆したとされる。義光は元弘元年(1331年)の元弘の変が起こると、護良親王に従って十津川、吉野、高野山などを転戦して2年にわたり幕府軍と戦い続け、元弘3年(1333年)幕府軍に追われ吉野から逃亡する際には、護良親王の身代わりとなって腹を切ったと伝えられる。その義光の子村上義隆も、同じく吉野でしんがりをつとめて討ち死にするなど、倒幕のために働いた。

建武の新政と村上氏
義光・義隆父子の後は、信泰の子で義光の弟である村上信貞が家督を相続し、義光親子の功績などもあり信濃国での権益と勢力を建武の新政下で一定の枠内で認められ、「信濃惣大将」と称せられるようになった。建武2年(1335年)に諏訪氏や仁科氏などが北条高時の遺児北条時行を奉じて挙兵した(中先代の乱)の際には、信貞は乱鎮圧のため信濃国各所に出兵し、事実上鎮圧軍の主力として北条与党の豪族達と交戦した。

南北朝時代

南北朝争乱と村上氏
箱根竹の下の合戦には足利尊氏の弟足利直義軍に加わって新田義貞軍を撃破する際に戦功があり、小県郡塩田庄を与えられていることから、村上信貞は足利尊氏が謀反を起こした際には足利方についている。それ以降、信濃守護職に補任された小笠原貞宗とともに、信濃国内の北条与党の討伐に邁進した。この頃の村上氏は、南朝・北朝というよりは反北条という立場だったが、北条時行とその与党が後に南朝方となることから、北朝よりの立場で信濃国での勢力拡大と地位向上を目指していた。

惣領家である信濃村上氏は次第に北朝方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる村上義武、その子、村上義弘は南朝方について活動していた。それが村上水軍と後に言われる勢力である。

伊予国を中心に瀬戸内海に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源頼義に従って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも瀬戸内海に面している周防、讃岐に流され水軍と深い関係を結んだ。その孫にあたる村上定国(前述の村上為国の弟)が治承・寿永の乱の際に、再び関係を持ち、村上水軍の初代となったとされる。その村上水軍を味方にするために後醍醐天皇ら南朝首脳は村上義武を派遣し、その子、義弘が水軍の村上氏を相続したとされる。

この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。

室町時代

幕府との対立
村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながり、師国・満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。くわえて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになる。

幕府はそれに対して、幕府の重臣であり足利一門で実力者の斯波義将を信濃守護に補任して、村上氏らの動きを抑え込もうとした。至徳4年(1387年)、村上師国は斯波氏の守護代二宮氏の軍と信濃国北部の各所で戦い、斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできずに終わった。

師国の子・村上満信の代にも、信濃守護に補任された小笠原長秀が率いる守護軍と村上満信を始めとする国人勢力(大文字一揆)が篠ノ井で激突し、小笠原勢は撃滅され長秀は京都に逃亡し、守護を罷免されている(大塔合戦)。

村上氏の衰退?
応永23年(1416年)「上杉禅秀の乱」が起こると、小笠原政康が中心になって一族・国人衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として信濃国内の軍事指揮権を掌握した小笠原政康は幕府にその実力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相対的に村上氏の勢力は弱まり始めた。

満信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、村上持清の可能性がある。その村上中務大輔を中心とする反守護軍と永享5年(1433年)3月に守護小笠原政康軍と合戦におよび、村上氏は鎌倉公方足利持氏に加勢を求めた記録があり、持氏は出兵を決断するが関東管領上杉憲実の諫止により沙汰止みとなった。そのためか、村上中務大輔はその後、史料にみえない。推測でしかないが、この戦いの結果、援軍を得られなかった村上中務大輔は滅亡もしくは衰退したのではないだろうか。また、援軍を求めるようになった背景には村上氏の衰退と小笠原氏の台頭があったとことが推測される。

村上頼清と関東の戦乱
村上中務大輔にかわり史上に現れるのは、氏祖の源頼清と同じ名を持った村上頼清で永享9年(1437年)に自ら将軍足利義教に出仕した記録がある。

前述の足利持氏と上杉憲実が前記の件から次第に関係がこじれて、ついに永享10年(1438年)8月、永享の乱が勃発する。永享の乱は上杉憲実に室町幕府が加担したために短期間で終わった。しかし、その持氏の遺児を擁して関東の雄、結城氏朝が挙兵し、永享12年(1440年)年3月、結城合戦が起こると、村上氏をはじめ信濃国の有力国人たちも守護小笠原政康に従っている。

この時代の村上氏の系譜

村上信泰-信貞-師国-満信-中務大輔(持清?)→村上頼清

村上氏の系図の混乱
中務大輔もはっきりと満信の子であるとはわからないし、実名も不明で推測で村上持清のことではないかとしたが定かではない。頼清に関しても史料的に確認が取れない。頼清に関しては村上信貞の弟、村上義国の子とする説、村上信貞の兄、村上国信の子、村上国清の子とする説。村上持清の子とする説。村上満信の弟、村上満清の子とする説など多数あるが確定を見ていない。義国については優良な史料では存在の確認が取れていない。また、持清の子には成清という子以外は史料にみえない。満信の弟に関しても優良な史料には記載がない。それぞれに問題点をはらんでおり、この時期、村上氏の存在意義およびその勢力が衰退していたことを傍証している。

諸説一覧

村上信泰-義国-頼清
村上信泰-国信-国清-国清
村上信泰-信貞-師国-満信-持清-頼清
村上信泰-信貞-師国-満清-頼清

小笠原氏の内紛と村上氏の再興
実力者小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職をめぐって政康の長男の小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。 しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446年)、小笠原宗康は弟の小笠原光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持長と光康の対立は続いた。 その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分かれて対立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に収めていった。この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。

戦国時代

戦国大名としての躍進と没落
村上政清、村上政国父子は近隣の有力国人海野氏幸を討ち、小県郡から佐久郡へと勢力を拡大していった。政国の子である村上顕国の事跡は詳らかではないが、佐久郡の有力豪族大井氏を服属させ、大井氏の後ろ盾として甲斐国から佐久郡に侵攻を始めた武田氏との抗争、北部では高梨氏を圧迫し勢力を広げていったとされる。一説には政国は「頼清」と顕国から「頼平」(頼衡)とも名乗ったとされ、政国(頼清)、顕国(頼平)の時代の信濃村上氏が源氏の名門として再興するだけの実力を備えていたことを推測させる(ただしこの時期の村上氏の系図が混乱していることは前述した通りである)。その子村上義清の時代に佐久郡を武田信虎に奪われるも、武田氏・諏訪氏と手を組んだ海野平の戦いで海野氏や真田氏ら小県郡に残っていた滋野氏一党を駆逐することに成功した。しかし、甲斐国の武田信玄との抗争に敗れ、北信濃を追われることになる。その後の義清は越後国の上杉謙信の客将となって失地回復を図ったが成功することはなかった。

安土桃山時代・江戸時代
義清の子の村上国清(山浦国清)が武田氏滅亡後一時的に信濃に復帰するも、上杉氏の家臣としての立場であった。国清は上杉家の内紛に巻き込まれ没落し、歴史から姿を消す。国清以降の信濃村上氏については各説あって定かではない。また、村上氏諸氏の一部は上野国、下総国等の国々に飛散してしまったといわれる。なお、安土桃山時代に登場した村上頼勝は信濃村上氏の一族と称している。

現在の村上氏
村上氏は全国でも上位にある大族である。しかし、多くは瀬戸内海地方(広島県、岡山県、愛媛県、香川県、山口県)に多く、それらは村上水軍の村上氏の末裔やそれに由来する人々で、信濃の村上諸氏の子孫は新潟県や埼玉県、千葉県等の一部に見られるがそれほど多くはない。2005年長野県坂城町において「村上サミット」が開催。

村上氏の末裔といわれる墓標は長野県上水内郡飯綱町に現存している。

2009年01月21日

線文字B

線文字B(せんもじビー、Linear B)は、紀元前1450年から紀元前1375年頃までミュケナイ時代に、ギリシャ本土からエーゲ海諸島の王宮で用いられていた文字である。

1900年に、クレタ島のクノッソス宮殿跡から出土した粘土板に刻まれていた文字群の一つ。発見者であるイギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズにより線文字Bと命名された。同時に発見された線文字Aから派生したとされる。エヴァンスは、クレタ文明独自の言語で書かれていると誤って推測し、解読は絶望視された。しかし、1939年にギリシャ本土で同文字が記された粘土板が大量に発掘され、また、名詞の単・複数形等とおぼしき語尾変化のパターンの発見等、地道な研究成果が蓄積されていく。そして1953年、イギリスの建築家マイケル・ヴェントリスと言語学者ジョン・チャドウィックによりギリシア語として解読された。アマチュア研究者ヴェントリスの研究手法は手堅いものであったが、ギリシャ語と看破したのは、彼の独創と言える。

線文字Bは、書簡や論文などには使用されず、また、文字が書き留められた粘土板は、人為的に焼成されていないことから、単純に記録を伝えるためだけに用いられたものと考えられている。日本の仮名と同様、音節文字である為、ギリシャ語を表記する上で余り機能的ではなかったようで、後代に引き継がれず、ミケーネ文明の崩壊と共に消失したとされる。ただし線文字Aは、古代キプロスの文字に発展したとする説も有る。なお、よく知られているように、ギリシア文字はフェニキア文字から発展したもので、線文字とは系統が異なる。

線文字A(せんもじエイ、Linear A)は、およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
イタ飯 タップ ナビトーチ レザー ひなづる メンド オラト 若き獅子 スイセン お山 シャシー フェタミン ブルージー ハリファ シンガ マニュ チリ バカンス スタバ ピアプ プラス シュード チェス シャトル ブレン プライス ビング 風神雷神 パライパ リンプ フォッ サラバード トシン バンド チロル もうげつ ラザニ ルサロ もみがら プルーフ アップ セクター ハーベ ローション インター ザクロ ブロカ ジェラー モルダビア ファー

イギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズは、1900年のクノッソス発掘に際して、3種類の文字群を発見し、それぞれ聖文字式文字(ヒエログリフィク)、線文字A、線文字Bと命名した。線文字Aは、クレタ各所の広い範囲に渡って出土しているため、クレタの共通文字とされる。線文字Bは1950年代にマイケル・ヴェントリスによって解読された。線文字Aと線文字Bには共通する文字があるものの、文字が刻まれた粘土版自体の品質が悪く、数も少ないこと、文章の体裁に一定の法則が成り立っていないことなどから、解読には至っていない。
象形文字(しょうけいもじ)とは、ものの形をかたどって描かれた文字からなる文字体系で、絵文字からの発展によって生まれたと考えられている。絵文字と象形文字との最大の違いは、文字が単語に結びつくか否かにある。絵文字が文字と語の結びつきを欲せず、その絵によってなんらかの観念や文章を伝えようとしたものであるのに対し、象形文字は文が語に分析され、その語と文字とが一対の対応をなす表語文字の一種のことをいう。

象形文字では、文字はもっぱらそのかたどったものの意味を担うが、一般に表語文字では、それぞれの文字が具体的な事物にとどまらず語や形態素を表すことが多い (詳細は表語文字の項を参照)。しかし、漢字における仮借、ヒエログリフなどでの表音的使用など必ずしも象形文字の特徴と一致するわけではないものもまとめて象形文字と呼ぶことが多い。

このような意味での象形文字としては、漢字、ヒエログリフ、楔形文字、インダス文字、トンパ文字などがある。現在も使用され続けている象形文字は漢字のみであり、日本語のカタカナは平安初期に男性が漢文訓読のためにその一部をとったもので、ひらがなは漢字の草書体から作ったものである。両者には「宇」からとった「ウ、う」などの重複も多いが、一方「八」からとった「ハ」、「波」からとった「は」などの違いもある。

2009年01月14日

新本格魔法少女りすか

『新本格魔法少女りすか』(しんほんかくまほうしょうじょ-)は著者・西尾維新のライトノベル。雑誌『ファウスト』にて連載中。単行本は講談社ノベルスより現在3巻まで発売されている。イラストレーションは西村キヌ(カプコン)。

全13話予定。今後、最終巻『新本格魔法少女りすか0』が刊行予定。

「魔法使い」・水倉りすかと「魔法使い」使いの供犠創貴の二人は、りすかの父親・水倉神檎を探すために佐賀県を拠点とした「魔法狩り」を行っている。

様々な魔法使いとの接触・戦闘を通して、二人は徐々に水倉神檎に近づいていくが……。

登場人物

主な登場人物
水倉りすか(みずくら りすか) 「赤き時の魔女」「魔法狩り」
長崎県森屋敷市出身の「魔法使い」。属性(パターン)は「水」、種類(カテゴリ)は「時間」、顕現(モーメント)は「操作」。運命干渉系の魔法使い。
小学5年生。いちおう小学校には籍を置いているがほぼ不登校であり、自宅で魔道書の写しの作業を行っている。好みのタイプは恰幅のいい男性(関取体型)。趣味は相撲観戦。父親探しのため佐賀県に転校してきた。2年近く前から単独で「魔法狩り」を行っていたが、1年近く前に創貴に出会い、以後行動を共にしている。架空都市長崎県出身であり、日本語を覚えたのは最近であるため「 - なのが、 - なの」(例:私に優しくしてくれないのが、キズタカなの)といった、主語・述語の逆転した独特の言い回し(創貴曰く、「下手なドイツ語の訳みたい」な話し方)をする。彼女の血には水倉神檎によってあらゆる種類の魔法式が施されており、大抵の魔法ならば血を流すだけで施行できる。
死に直面するほどの血を流すと1分間だけ17年後・27歳の自分になれる。17年後のりすかは、なるたびに性格は少し違うがすべてを通して非常に好戦的である。またそれと同時に非常に強く、現在のりすかが使いこなせていない時間の魔法をいとも簡単に使いこなしている。
供犠創貴(くぎ きずたか) 「『魔法使い』使い」
佐賀県在住の小学5年生。毎期クラス委員長を務める優等生である反面、自分以外の全ての人間を見下している傾向が強い。1年前に不登校であったりすかの家を訪問した際に彼女が普通ではないことを直感。それ以後彼女を重要な「駒」とみなし、近しい関係を保っている。コーヒーは苦手だが缶コーヒー(ブラック・無糖以外)は飲める。
夢は全ての人間を幸せにすることであり、そのためならばどんな犠牲も厭わない。父親には反発している反面、敵わないと認め尊敬している。
チェンバリン
りすかの忠実なる従僕。りすかの家の一階でコーヒーショップを営んでいるが、あまり繁盛はしていない。子供である創貴に対しても非常に丁寧な対応をする。りすかの手錠を作った。
ツナギ/繋場いたち(つなぎば いたち)
水倉神檎によって「魔法」使いにされた少女。元は人間であった。2000年以上生きているらしい。属性は「肉」、種類は「分解」。体中に512の口をもち、その口に喰われたモノは魔力を分解・吸収される。りすかにとっての天敵。
りすか達との戦闘後「観察」のため、"繋場いたち"と名乗りりすか達の小学校へ転校してきた。城門管理委員会の創始者であるが、目立った地位には就かず、孤高の前線部隊として活動している。水倉神檎に自身を殺してもらうために、彼の消息を追っている。2000年以上生きていることもあり経験豊富で、戦闘においては心強い仲間であるが、逆境に弱いという弱点も持つ。
水倉神檎(みずくら しんご) 「ニャルラトテップ」
現在行方不明のりすかの父親。666の「称号」を持っていたが、そのうちのひとつ「赤き時の魔女」をりすかに与えたため、現在の「称号」は665個。海を渡れない「魔法使い」に海を渡らせる「箱舟」計画なるものを企んでいるらしい。
供犠創嗣(くぎ きずつぐ)
創貴の父親。佐賀県警の刑事。日本中の警察で彼に逆らえるものはいない。
女性にモテる。結婚・離婚を5回繰り返していて、現在の6人目の妻とも別居中。全身真っ白の背広姿。甘いものに目が無く、カレーも甘いものが好きである。創貴とは距離を置いた関係。りすかのことはそれなりに気に入っているらしい。

魔法使い
高峰幸太郎(たかみね こうたろう)
属性「風」。地下鉄運転士。水倉神檎によって「魔法」使いになった。真空・かまいたちなどを作り出せる。
影谷蛇之(かげたに へびゆき) 「影の王国」「豚歌い」「鷲豚の輪廻」「赤豚紳士」「悪意の天才」
在賀織絵を攫った。水倉神檎の「ディスク」を守っていた一人。
幼女を攫い衰弱死するまで「固定」し鑑賞するのが趣味。「城門」内で誘拐容疑により逮捕されたが、脱獄。「城門」の外へと逃亡した。赤い安全ピンのようなジャケットを着ている。
火住峠(ひずみ とうげ) 「火祭り」
属性「火」。水倉神檎の「ディスク」を守っていた一人。厳しい顔をした、身の丈2メートル近い大男。
水倉破記(みずくら はき) 「迫害にして博愛の悪魔」
りすかの従兄妹。18歳の高校3年生。父親は水倉神檎の弟。
属性「水」、種類「運命」、運命干渉系の魔法使い。彼の血には水倉神檎により魔法陣が施されていて、その血を浴びた人間は血を洗い流さないと死ぬまで不幸がつきまとう(ただし水倉破記との距離が近いほど、不幸の危険度は増す)。供犠創貴の天敵。
椋井むくろ(むくい - )
城門管理委員会の委員長秘書。全身黒服姿。ツナギとは親しい方であった。

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